あの頃は若かった。将来に対する漠然とした不安を学業以外のことで埋めようとしている、とても優秀とは言いがたい大学生だった。GDP世界二位の経済を享受していた1980年、わたしは渡邊先生の研究室に配属された。三菱化成生命研から東京大学農学部農芸化学科に赴任されたばかりの先生にとって最初の卒業研究の学生であった。先生はまだ三十代。新進気鋭の新任教官にありがちな、学生に対する過度の期待は瞬時に吹っ飛んでしまったにちがいない。

 私が渡邊先生の門下に入ったのは1986年4月、修士からである。いまでも大差ないかもしれないが、当時の私はとんでもない学生であった。大学院入試で学部の4年の時に所属した物理化学系の研究室から、生物系の研究室に移ろうと思い立ち、同じ学科内に少し前に新設された三浦研(三浦謹一郎先生)に志望を出した。志望を出すにあたって、三浦先生に一言も断りもなく、合格して三浦研に配属が内定しても、一言も挨拶に行かなかった。とんでもなく非常識な学生であった。

 私が曲がりなりにも研究者という立場で、今も研究活動を行えているのは、ひとえに渡辺公綱先生のおかげです。渡辺先生からいただくハガキに添えられているメッセージは、いつも解読困難な達筆で、読むのに一苦労するのですが、必ず「一発当ててください。期待しています。」と書き添えてありました。その文章だけは上手に読めるようになりました。これが横川の仕事だ! という研究成果をお見せする前に、渡辺先生がお亡くなりになって、淋しい、悲しい、はもちろんですが、自分がふがいなく、悔しい、という気持ちも少なからずあります。

 私は、昭和62年度の東京大学工学部での卒業研究の際、三浦謹一郎教授の教室を配属先に選び、その際、当時、同教室の助教授だった渡辺公綱先生が三浦先生と一緒に考えられたテーマを選んだ。これをきっかけに、現在もなおミトコンドリアタンパク質合成系の研究を続けているのだが、渡辺先生との出会いは、研究室配属の約1年半前にさかのぼる。

 2016年10月16日の早朝、渡辺公綱先生が逝去された。その報に接する2週間ほど前に、東京大学農学生命科学研究科の浅川修一さんとともに病床の渡辺先生とお話しする機会があった。その際に、渡辺先生から今後のご自身の研究について前向きなお言葉を伺い、一度は安堵し、先生のご回復を祈っていた身として、残念でならない。

 昨年の10月16日、日曜日の朝、起きてリビングにおりていくと「渡辺公綱先生が亡くなったよ。。」と野乃から伝えられました。その3日前の夕方6時頃に、鈴木勉さんから研究室に電話にて、渡辺先生の体調がよくないことを伝え聞き、そのまま鈴木勉さんと都内で待ち合わせて入院先の都内の病院へお見舞いに向かいました。

 突然の訃報に、私たちは深い悲しみに包まれています。

 私は1990年に、卒研生として渡辺研究室に配属されました。それ以来、渡辺先生は私の唯一のメンターとして、公私ともにずっとご指導を賜ってきました。思い起こせば、いつもニコニコされて、「がはは。」と大声で笑い、楽しそうに研究の話をする姿が浮かび上がってきます。おおらかで、茶目っ気があり、懐が深く、情にもろくて、人格的にも本当に素晴らしい先生でした。私も今では研究室を主宰する立場となり、学生の指導などで難しい局面に立たされることがよくありますが、そんな時は、いつも「渡辺先生ならどうするかな?」と想像しながら、対応を考えたりします。本当にいい先生に恵まれたと思っています。私以外にも、同じように思っている門下生たちがたくさんいることでしょう。

~昨年10月の日曜日の朝、好熱菌の生育の測定が終わり、さて帰宅しようかと思った折、訃報を聞きました。渡邊公綱先生201報目の論文のための実験でした。ああ、ご報告が間に合わなかった。~

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