偉大なるメンターとの別れ

投稿者 藤原 俊伸

 2014年11月13日午前、野本明男先生がご自宅で静かに息を引き取られた。享年68歳。最後まで病と闘われた最後は、本当に穏やかであったらしい。しかしながら、多くの方々同様、私にもまだ実感がわかないままである。

 メンター。ギリシャ神話で、ホメロスの叙事詩「オデュッセイア」に登場する人物であるメントール(Μέντωρ)を語源とする。メントールは、「オデュッセイア」の主人公オデュッセウスの友人で、オデュッセウスがトロイア戦争に出陣するとき、自分の子を託した人物である。現代では、メンタリングという人材育成の手法における指導者を意味し、メンターは、余計なことは言わず、育成される側であるメンティーの自発的な成長を促す指導者を意味する。野本先生はまさにウイルス、RNAをはじめとする様々な生物学の学問分野における偉大なメンターであった。

 野本先生はJSTさきがけ「RNAと生体機能」の研究総括をはじめ、様々な特定領域研究および新学術研究における評価者を務められ、その懐の広さ、公平さにおいて稀有な人物であった。研究者としての評価は研究以外のことでは決して決めず、常時抜き身の真剣を振り回しているような私や、嫌な奴(野本・談)のY下氏など特にかわいがっていただいた。

 さきがけ研究者は、野本先生が選出したアドバイザーと呼ばれる若手からシニアまで幅広い年齢層と様々な学問分野からの(一癖も二癖もある)PIの面前で行うプレゼンを経て選出された。プレゼンで彼らに殺意を催したのは私1人では無いはず。そんなアドバイザーが座る席の最奥に、満面の笑みの野本先生が座っていたのが非常に印象深かった。そして、1年に2度行われる領域会議で、研究者は成果が上がっていても無くてもアドバイザーに袋だたきにされる。しかしながら、野本先生はやはり笑顔でこう言う。

「うまく行きそうなことをやればいい。テーマに縛られることはない。」

 この言葉にどれだけ多くのメンバーが救われたことだろう。そして、3期にわたり採択された29名から30代で東大教授になった泊さんを筆頭に数多くのPIを排出することとなる。我々は(少なくとも私は)、野本明男という大きな傘の下、領域アドバイザーによって鍛えに鍛え抜かれた。

 野本先生との最初の出会いは、1998年であった。1998年当時、野本先生の研究室は東大・医科研2号館にあり、私が大学院生として所属していた中村(義一)研の階上であったためよく痛飲されていた姿を目撃していた。それから13年、私は不安定な身分に陥った2011年、野本先生が理事長をされていた(公財)微生物化学研究会微生物化学研究所に主席研究員として引き取っていただいた。2年間ではあったが、結果として、私は野本先生最後の直属の部下となった。その際も、野本先生は「好きなことをしていいから良い仕事をしろ。」とだけ言われた。メンターとしての姿勢を最後まで貫かれた。

 野本先生のメンターとしての姿勢は誰かが必ず引き継がねばならない。今の私には到底行き着くことのできない領域である。論文の質および数、研究費の獲得額の多少、仕事の世間的な評価、これらを超越したところに野本先生が立っていたような気がしてならない。

「春には元気になるから。」これが最後に聞いた肉声となってしまった。近くにいるときにもっともっと話をしておけばと思う毎日を過ごしている。

 ご冥福はお祈りするが、安らかにではなく、何時もどこかで無言のプレッシャーをかけ続けていただきたい。

 野本先生、ありがとうございました。

 

名古屋市立大学大学院薬学研究科 教授 藤原俊伸


シアトルでのRNA society meetingで

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