廣瀬哲郎先生のもと、2015年初夏の札幌で第17回RNA学会年会が行われ、最先端のRNA研究に触れる機会をいただきました。その特別講演では、同じく札幌で53年前に核酸を学ばれた大塚榮子北大名誉教授が、その後のご自身の研究についてご講演されました。遺伝暗号解読やncRNAなど、半世紀の違いを経て共に黎明期の研究成果が交錯した素晴らしい年会で大変勉強になりました。今回、その年会を受けて北畠真先生(京都大学)が大塚先生への学会報のインタビューをご発案され、私と中村さんがその聞き手を仰せつかりました(我々は共に札幌に居るということだけなのですが)。
この1月で大塚先生は80歳になられましたが、インタビューでは研究者間の連携、テーマの重要性など、時代に無関係に重要なアドバイスをうかがうことができ、最後には先生ご自身のメッセージを添えていただきました。タイトルは北畠先生が内容から見事に抜粋されたものです。聞き手の力量不足はご容赦いただき、本企画が、活気溢れるRNA学会に所属される特に若い研究者の方々のご参考になれば幸いです。
(2016年2月 小松)
小松 本日は北畠先生から依頼がありまして、大塚先生にインタビューさせていただきます。若手の中村さんを交えて、これまでのご研究生活に関してお話をうかがえればと思います。よろしくお願いします。
大塚 はい、よろしくお願いします。
中村 中村です。よろしくお願いします。
【アメリカへの留学】
小松 早速ですが、大塚先生は1963年に北海道大学薬学部の博士課程を修了されて、その後アメリカに渡られています。当時は今とは環境も大きく違っていたと思いますが、薬学部の卒業生のうち、どのぐらいの人が留学を選択されたのでしょうか?
大塚 まず、学部の同級生40人のうち7人が大学院に進学して、そのうち博士課程に進学したのは5人でした。博士課程の途中でアメリカに留学したのが1名、修了後私学に就職してからアメリカに留学したのが1名、就職しないですぐ海外に留学したのが私も含めて3名だったような気がします。学部卒も就職することが非常に難しい時代でしたが、北大に新しく出来たばかりの薬学科ということで、学科長が各製薬会社に世話しました。大体はプロパーになっていましたね。
「修士論文発表風景」 題は「GDPの化学合成」。酵母から取ったRNAを分解してからグアノシンを結晶化し、5'をリン酸化しさらにピロリン酸化した。
小松 留学された方々はどちらの国に行かれたのですか。
大塚 やはりアメリカですね。その頃のアメリカはちょうどケネディの大統領の時代で、非常にいい時代だったのです。ところが、63年の秋にケネディが暗殺されて、いっぺんに何か暗い雰囲気になったような気がしますけど。
小松 アメリカではウィスコンシン州立大学マディソン校の、Har Gobind Khorana先生の研究室に参加されました。当時のKhorana 研は何人ぐらいで研究されていたのでしょうか?
大塚 Khorana 研はその当時12~13人のメンバーで構成されていました。メンバーは全部ポスドクで、世界各国から来ていましたね。大体はKhorana先生のイギリス時代の知り合いの先生のところから来ていたと思います。それ以外にもサバティカルで来ていた人もいますね。ギリシヤとか、後からですけど、ノルウェーとか。
「1964年のKhorana研究室メンバー」 前列左から5番目が大塚先生。Khorana博士(左から2番目)、Söll博士(一番右)、西村博士(右から4番目)の顔が見える。
「実験室風景1964年」 イギリスから来たばかりのポスドクMalcolm Moonとは隣合わせの机で、実験台も隣でした。
【遺伝暗号の解明に関わる】
小松 なぜKhorana研を選ばれたのですか?
大塚 それはオリゴヌクレオチド合成の最先端の研究室だからです。DNAなら10個ぐらいまでダイエステル法で合成できた時代でした。行ってすぐのテーマは、繰り返し配列のあるDNAをダイエステル法で合成することでした。
小松 のちにKhorana先生のノーベル賞受賞の対象となる、遺伝暗号の解明にもつながるお仕事ですね。当時はまだ遺伝暗号が解かれていない時代で、われわれはそのような時代を想像することも出来ないですけれども。当時の最先端の研究室に参加されたわけですが、やはり他の研究室との競争は激しかったですか?
大塚 私が参加した当時でも、遺伝子からタンパクができるときにRNAが関わるということやtRNAの存在は予測されていたわけです。遺伝学の方からも「どうもRNA3個とアミノ酸1個が対応するらしい」というのが分かってきていました。そんな中ちょうど、NIHにいたSevero OchoaとMarshall Nirenbergがリボソーム上で対応するtRNAとコドンの3個のRNAがあると複合体を作ってフィルターに結合することを発表して、遺伝暗号の解明に向けた道筋を示したのです。Khorana研はそれまでDNAの化学合成を研究していたのですが、RNAも数個なら任意の配列のオリゴヌクレオチドが合成できました。合成RNAを使うことになったわけです。コドンの3塩基に対応する64種リボトリプレットが必要になりました。
中村 わたしは研究をはじめた時からコドン表の存在がもう当たり前になっていたのですが、当時、実際そのコドン表を少しずつ明らかにしていくという過程では、やはり世界中の研究室が競争を繰り広げる、といった動きがあったのでしょうか?
大塚 そうですね。少し詳しく言うと、遺伝学の人たちは遺伝学の方法で明らかにしようとしていたのです。しかしそれだけではあまりわからず、OchoaとNirenbergが先ほどのリボソームバインディング法で特定のtRNAとコドンの対応を見つけました。その後、すべてのコドンの意味を解明してコドン表を早く完成しようと競争がありましたが、直接の競争があったのはNirenbergとKhoranaの間で、それは1964年ぐらいの話です。彼らはすべての64種の配列は手に入れられないのですが、それでも翌年、1965年のFederation meetingでは今の形のコドン表が同時に発表された訳です。
「西村先生、早津先生と学会で」 1965年、遺伝暗号が発表されたFederation Meeting にて。西村先生(写真左)、早津先生(写真右)。
中村 速いですね! その二つの研究室は、全く別のバックグラウンドから別の方法を用いて同じゴールにたどり着いた、ということになるのでしょうか?
大塚 リボソームバインディング法というのはKhorana研も使っていました。だから完全に異なる方法を用いたということでもないのです。鋳型になるRNAの調製については、OchoaたちはKhoranaのような化学合成ではなくて、Polynucleotide phosphorylaseで合成したホモポリマーやミックスオリゴマーを使ってコドンを決めようとしていましたね。それぞれのやり方には共通するところも、異なるところもありました。
小松 アメリカでは厳しい競争環境をご経験されたわけですが、そんな状況でもお休みとか、そういう余裕はあったのでしょうか?
大塚 「トリプレットを一年以内に64種合成しよう」なんていう時だったわけですからその時は皆もう必死になってね…。休みどころの騒ぎじゃなくて、やっていましたね。
中村 皆というのは大体何人ぐらいでしたか?
大塚 そのトリプレットの合成を担当していたのは4人です。Dieter Söllさん(現Yale大学教授)を含むドイツ人のchemist2人と、それから日本では早津彦哉さん(岡山大学名誉教授)と私。その4人でリボのトリプレットの化学合成をしたわけです。
小松 西村暹先生(帰国後、国立がんセンター研究所部長)もその時にKhorana研にいらしたのですね。
大塚 そうです。先ほど出てきた「リボソームバインディング法」に使うためのリボソームを大腸菌から精製する方法は西村先生に習いました。
小松 当時の研究室やアメリカでの生活で、研究以外も含めて特に思い出に残っているのは何でしょうか?
大塚 ウィスコンシン大学は湖のそばにあって、非常に景色が良いのです。キャンパスの中にいるだけでリゾート気分でしたけど、ピクニックもよくやりました。夕方から湖畔に出かけてラボピクニックをしたこともあります。それと日曜日には国立公園へ行って山登りをするとか楽しい行事もありました。
「キャンパス近くのメンドータ湖畔」 Dieter Soll さんの家主一家とピクニック。1963年行ったばかりの頃。
小松 逆に、辛かったことや、ご苦労されたことなどもありませんでしたか?
大塚 いや全然、あまり感じてなかったですね。行ったばかりの時はあまりスムーズに会話が成立しませんでしたが、そういうもどかしさはありましたけど。それでもまあ一年経つと、だいたい英語で喧嘩もできるようになりました。
中村 同僚たちと一緒に仕事しているわけですが、普段から活発にディスカッションをしていたのでしょうか?
大塚 そうですね、特にSöllさんは半年前から来ていて、先輩だったのでいろいろ教えてくれました。
小松 やはり留学されてよかったということですよね。
大塚 そうですね。その頃アメリカに行った人たちはみんな、今でも世界中で活躍している人が多いです。Khorana研の関係者が一同に集まる「Khoranaシンポジウム」という集まりがイギリスで開かれたこともありますが、それに参加するためにイギリスを訪問した時も、その頃一緒だった人のところを訪ねて行ったりしました。それから、サバティカルでベルゲンから来ていたノルウェーの先生のところも訪ねて行きましたしね。ドイツでも訪ねていった先生がいますよ。外国の人ばかりでなく日本から行ったポスドク同士についても言えることですが、「その時一緒にいる人たち同士が出会う」というのは大事ですよね。
「1966年遺伝子合成の始まり」 帰国を半年延期して、新しく参加した新鋭のポスドクRobert D Wells さん(後にTexas A&M University教授)とDNA polymerase の実験を計画した。
「DNA ligase 実験成功パーティー」 1967年12月から翌年2月までDNA ligaseを使ってアラニンtRNA遺伝子合成のため再度Khorana研を訪問。酵素を精製したのはMerotraさん。
中村 ウィスコンシンでは、同じ時期に留学していた日本人の方はたくさんいらしたのですか?
大塚 西村先生と早津先生は同時期でしたがその後、日本から留学した人とも同窓生になります。それから、ウィスコンシン大学は日本人が結構多く、日本人会というのがありました。また日本にはウィスコンシン大学同窓会があるぐらいです。わたしはそこまで広く付き合いはないのですが、その頃一緒に研究した知り合いとは、やっぱり長く付き合いが続きますね。
【帰国後の研究】
RNAの化学合成
小松 その後3年間経って日本の北大に帰ってこられたわけですね。
大塚 ちょうど北大の薬学が学部になり、40人定員から80人定員に増えて、それで6講座増えました。それで、当時の池原研(池原森男大阪大学名誉教授)に戻って来ました。でも池原研がその次の年か次の年に大阪大学に移ったので、教室中で大阪大学に行くことになったのです。その後、北大に戻ってきたのは1984年です。
小松 日本に帰られてからの最初のお仕事は何を始められたのでしょう?
大塚 日本に帰るときにKhorana先生に、「RNAの合成は難しいけれど、やったらいい」って勧められたのです。それもあってRNAの合成法を開発しようと思っていました。RNAの化学合成ではリボースの2’位の水酸基を化学的に保護する必要があるので、光で外れるような保護基を使おうとか、そういったものを最初の頃は研究していました。
小松 当時RNAは何塩基ぐらいまで合成できたのですか?
大塚 だいたい12~13個まではつなげられましたね。
中村 それをもっと長くできないか、ということですね。
大塚 はい。短いDNAを、DNAリガーゼを使って連結することでKhoranaらは「遺伝子の全合成」ができたわけです。それと同じようにRNAリガーゼというのが発見されて、RNAの短い断片も連結できるようになりました。
中村 では12-merぐらいを合成して、
大塚 次々につないで長くしていく。
タンパク質へ
小松 RNAの合成の研究を続けながら、その後先生は幾つかのタンパク質にも研究を展開されています。代表的なものでがん遺伝子のRASタンパクがあるのですが、どのようなきっかけでこちらに展開をされたのでしょう?
大塚 RASに出会う前ですが、まだ大阪大学時代に、当時の科学技術庁のプロジェクトで、日本でも「長いペプチドを遺伝子から作る」というプロジェクトが始まったのです。その時はヒト成長ホルモンの遺伝子合成をしようという計画でした。これはその当時では知られていた一番長い遺伝子でした。それで、その頃はDNAの2量体(16種類)を作っておくと、それを組み合わせれば、全部の配列に対応するという方法論が確立していたのです。それを利用して自分たちが遺伝子合成をやり、発現ベクターは松原研(松原謙一大阪大学名誉教授)に教えてもらいました。こういった一連の仕事を阪大でやっていたわけです。こういうバックグラウンドがあった上で、その後に北大に戻ってきた頃に、西村先生からras遺伝子の話をうかがったのです。膀胱がん細胞のras遺伝子に実際にミューテーションがあるものが発見されました。このRASタンパク質を作るための遺伝子合成をしようと誘われたのです。北大では、阪大時代に経験していた「ヒト成長ホルモンの発現方法」と同じやりかたを使って、RASタンパク質の発現をしました。
中村 ということは、そこで西村先生から話が来たというのもやはり、留学の際のつながりというのが大きかったのですね。
大塚 そうですね。
小松 きっかけがあったにしても、タンパク質の方面に研究分野を広げられたというのは、先生ご自身がやっぱりタンパク質にも興味をお持ちだったということでしょうか?
大塚 はい。やっぱり作用を発揮するのはタンパク質ですからね。でもRNAにも触媒活性があるということがその頃から少しずつ分かってきましたよね。そういうこともあって、RNAの構造と機能というのも、北大にきてからの大きなテーマになりました。
小松 中村さんは今までのお話を聞いてどうですか?
中村 やっぱり当時、PCRなどの技術がない時代ですよね、そのような時代にタンパク質を大量に作って構造解析まで行った、実際にタンパクの構造を見るところまで実現できた、というのを聞いた時には大変驚きました。
大塚 そうですね。たとえばRASタンパク質は天然には本当に少量しかないのですね。だからウイルス由来のイントロンを持たない構造で、大腸菌に適したコドンを使って遺伝子を設計し、大腸菌の中でRASタンパク質を大量発現させて、構造解析に使おう。これが西村先生から誘われたテーマでした。実際にこういうことを可能にするにはいろいろ工夫が必要です。たとえば発現ベクターのプロモーターが強くないと沢山タンパクを作ることはできないのです。ただ幸運なことに、ヒト成長ホルモンの発現に使ったプロモーターは非常に強くて、RASタンパク質を大量発現できた、という巡り合わせもありました。
修飾核酸の開発
小松 また北大では、チミンダイマー、8-oxo-デオキシグアノシンなどの損傷塩基も合成、研究されています。また2’-O-methyl RNAを開発されてRNase Hとの相互作用を明らかにされました。特に2’-O-methyl RNAは今でもアンチセンスやsiRNAなどに広く利用されていますが、その研究の経緯もお聞かせいただけますか?
大塚 ええとね、RNase Hの研究も、当時蛋白工学研究所にいた金谷茂則さん(大阪大学教授)に誘われて一緒にすることになったのが始まりです。その時に、「切れないRNAが必要だ」ということになり、それなら「とにかく2’位の酸素原子をメチル化したRNAを合成すれば良い」ということになりました。この仕事では当時の助教授の井上英夫さん(大阪市立大学教授)が2’-O-methylの合成法を開発しました。もともとRNase Hは、RNAとDNAのハイブリッドのヘテロデュプレックスを認識してRNAを切断する酵素ですよね。この時、ガイドになるDNA鎖の方は実は完全に純粋なDNAでなくてもよくて、DNAの塩基が大腸菌のRNase Hの場合は4個だけあれば、残りの塩基がRNAであっても相補鎖のRNAは切断されます。このことに初めて気がついたのが井上さんで、このDNAとRNAから成るガイドの1本鎖核酸に、「キメラDNA」という名前をつけて発表したのです。ただ、どういうわけか同じ構造にアメリカの人たちは“gapmer”という名前をつけてしまって、今ではその名前がさかんに使われていますけれど。この後、メチル基以外の修飾として、2’に他のアルキル基を付けたものがもっと安定性が良いとアメリカのベンチャーが開発したりしています。
中村 天然の核酸をいろいろ改変して、さまざまな性質を持つ修飾核酸を作る、という研究についてもう少し教えてください。
大塚 長い遺伝子を組み立てる時に、十何個ぐらい塩基のDNA断片を沢山連結するわけです。その際、一つの断片に、損傷核酸とか修飾核酸の塩基を入れておけば、長い遺伝子の中にひとつだけ特殊な塩基を入れることができるのです。そういう合成の方法を使って、修飾塩基の入った遺伝子も合成できるようになりました。塩基の部分の修飾は特に有機化学的な方法を使わないといけないわけです。
中村 修飾核酸を利用した薬の開発や、企業とのつながりができた、というようなこともあるのでしょうか。
大塚 昔からね、代謝拮抗物質である核酸の誘導体を使えばがんの薬ができるのではないかというので、1960年頃から核酸のケミストリーというのが発展していたのです。例えば5-フルオロウラシルの誘導体は今でも使われています。インダストリーでは、呈味物質のIMPとか、GMPとか、そういうものの研究は日本で始まったので、そのあたりは日本のインダストリーが進んでいました。研究は進んではいたのですけれど、その後の薬の開発ではずいぶん遅れてしまいましたね。
【研究から得られた感動】
小松 今まで大塚先生が長年研究してきた中で、最も興奮した研究成果とか、そういう瞬間について少しお話いただけますか。
大塚 Khorana 研ではArthur Kornbergの発見したDNAポリメラーゼを使って2本鎖DNAをずらしながら長い遺伝子を合成しようとしましたがヌクレアーゼ活性が強くて出来なかったのです。ところがDNAリガーゼが発見されて、つなぎ目をずらした2本鎖DNAが結合することがわかって、実際に32Pでラベルした大きな断片をゲルで見たわけですね。遺伝子合成ができた時はやはり興奮しましたね。
小松 ご自分でも実際に実験されたことですし、感動もひとしおでしたでしょうね。その後、阪大とか、日本に帰ってきてからも同じように興奮したことがありましたか?
大塚 阪大時代に印象に残っているのは、RNAの断片の合成に挑戦した時のことですね。先ほども出ましたが、アメリカを去る前にKhorana先生から「RNAの合成というのは未開拓だから、日本に帰ったらやったほうがいい」っていう言葉で激励されていたわけです。それでtRNAの断片を合成して、tRNAの全合成をしようという計画を立てました。最初どういう方法で断片をつなごうと思っていたのかはちょっと忘れちゃいましたけど、やはりDNAの時と同じようにちょうどその頃、RNAリガーゼが発見されたのですよね。大学院生の西川諭さん(産総研)が杉浦昌弘先生(当時、遺伝研)のところに習いに行って、酵素を精製してきました。後輩の大学院生がその酵素を使って、合成したRNA断片をつなぎました。やはりゲル電気泳動後32Pの感光で長いRNAを見た時は皆で興奮しましたね。
小松 DNAの合成で経験があったのでRNAの合成の時もその発想に到達できた、というような面もあったのでしょうか?
大塚 どうでしょうか。まあRNAの合成方法の開発について言えば、遺伝暗号決定の時代にリボトリプレット64種を全部合成しましたけど、そういった短いRNAの合成方法っていうのをもう少し効率よくして長いRNAが合成できるように、ずっとなんとか改良しようとしていたので、保護基の開発などをしていました。現在RNA合成で使われているものは、その当時のものに比べればさらに改良されていますけど。
「大雪山登山の後で」 1996年生化学会・分子生物学会合同年会で Khorana先生の特別講演の後、大雪山の旭岳と黒岳に登山。写真上 旭岳山頂が見える。Khorana先生、小林博幸さんと。写真下 層雲峡温泉マウントビューホテルに宿泊し、カラオケルームにて。
【次世代の研究者へのアドバイス】
小松 研究の話についてうかがいたいことはまだ沢山ありますが、ここで別な話題についてお聞きしたいと思います。たとえば、女性の研究者ということについてですが、これまでいろいろなご苦労などもお有りだったのではないでしょうか? RNA学会の質疑応答では「特になかったです」というようなお話だったのですが。あるいは関連したアドバイスなどがあればお話しいただけますか?
大塚 やっぱり自分がいる環境によって、非常に働きにくい環境にぶつかった人たちはすごく苦労するし、たまたま、あまりそういうところにぶつからなければ、それほど苦労しないで過ごせるということですよね。環境によって違いますね。もし「一緒に働きたくない」なんていう人がいるところであれば、それは苦労しますよね。
小松 先生は日本とアメリカそれぞれで研究されてきました。何か次世代の研究者へのメッセージのようなものはありますでしょうか?
大塚 やっぱり「大事だな」と思うことをやったほうがいいですよね。「やりやすい」とかから始めるとそこで終わってしまうかもしれないので。大事そうなところにまず行くっていうのがいいと思います。
中村 難しいか簡単か、というのではなくて。
大塚 大事なことをねらっていった方がいいのではないでしょうか。何かやっていれば、必ず結果は出ますよね。だから、“勘”を働かせてやることですね。勘が働かないと無駄なことをしてしまうかもしれません。やらなきゃならないことは沢山あるので、そのうちのどれを選ぶかは勘ですよね。やれることは限りがあるから、勘を働かせて優先順位をつけてやるのが大事じゃないですか。
中村 本当に納得がいきます。それから、今日先生の話を聞いていて、人脈というか、コラボレーションが大変に上手くいっているな、と思いました。
大塚 それは発表して行かなければだめということですね。発表すれば、それを見て、「こういうことをやりましょう」って誘ってもらえますから。
中村 なるほど。
大塚 やっぱり論文発表は大事ですよ!
<終わりに>
大塚榮子
分野の発展に重要なことは研究者が増えることと考えられるので、例えば基盤研究の採択率を今の2倍ぐらいにして、自由に研究ができるようにすることが望ましい。テーマは重要で、研究したいと思わせる魅力がないとならない。思いがけない結果が得られた時にはその価値を判断するには知識も必要ですから普段の勉強と勘が必要です。偶然見つけたことから発展させたテーマであれば他人と競争になることも避けることができるのではでないかと思います。
女性研究者が活躍できるようになるには多様性を認める社会になることが望ましい。他人の考え方や価値観を認めるようになれば、多くの紛争も解決されるかもしれません。科学者も紛争のない世の中を作ることに貢献すべきと思います。
産総研北海道センター(2016年2月) 大塚先生(中央)、小松(左)、中村(右)
大塚榮子先生:
1963年 北海道大学大学院薬学研究科博士課程修了
1963年 米国ウィスコンシン大学 酵素研究所博士研究員
1966年 北海道大学薬学部助教授
1976年 大阪大学薬学部助教授
1984年 北海道大学薬学部教授 1999年から名誉教授
2000年 産総研フェロー 2005年から名誉フェロー
2004年 北海道大学監事(2008年まで)
(聞き手)
小松康雄:
1995年 北海道大学大学院薬学研究科 博士後期課程修了
1995年 同大学院薬学研究科 助手
2000年 株式会社DNAチップ研究所
2003年 産業技術総合研究所
中村彰良:
2010年 北海道大学大学院生命科学院 博士課程終了
2010年 北海道大学大学院先端生命科学研究院 博士研究員
2011年 Yale university, MB&B, postdoctoral fellow (Dieter Söll lab, 学振海外特別研究員)
2013年 産業技術総合研究所