おもいで

大島 泰郎

 渡辺君を知ったのは、1968年秋、私がアメリカ留学から帰国し、新設された東大農学部の今堀研の助手に配置換した時である。今堀先生は教養学部と農学部を兼任しており、渡辺君はじめ大学院生は皆、教養学部の今堀研にいたので、毎週1回、セミナーの時しか顔を合わせなかったが、渡辺君は院生のボスという感じだった。渡辺君は体が弱く、小学校時代に休学し、ほかの院生より歳をとっているせいか、そのような苦労のせいか、落ち着いた態度を生みだし、それがほかの院生をひきつけていたのかもしれない。

 時は「大学紛争時代」の真っ只中、校内は「タテカン」が林立し、校舎が封鎖され、院生も浮き足立っているときに、落ち着いた判断で院生の信頼を得ていた。今堀研の渡辺君の同級生の一人に大隅 良典君がいた。渡辺君は核酸、ことにRNAを対象として、今堀先生のお家芸である円二色性の測定をテーマとしていた。渡辺君のRNA研究の原点である。

 4年ほどで、私は新設された三菱化成生命科学研究所へ移ったが、そのとき渡辺君も博士課程を修了し、一緒に移った。三菱の生命研で、渡辺君は好熱菌のtRNAの特定の位置のウラシル塩基がチオ化されることが耐熱性獲得の鍵であること、さらにチオ化の反応が、外界の温度に依存していることを明らかにした。渡辺君はそれ以降も輝かしい成果を上げ続けているが、この成果は今なお好熱菌や極限環境生物の研究者の間によく知られ、高く評価されている。

 三菱生命研以降も、渡辺君と私ははしばしば同じ研究機関に所属しているが、微妙にズレていて、一緒に研究することはなかった。私が東工大にいたときに、渡辺君も東工大の教授として赴任してきたが、学科や大学院の専攻がずれていた。その時は一時、パートの秘書を共有していたこともある。一日おきに、私の研究室と渡辺君の研究室に同じパートの秘書が勤めていた。東工大のあと、私は東京薬科大学に移ったが、私の定年退職後、産総研を定年退職した渡辺君が客員研究員として在籍していた。今度は同じ研究室だったが、時期がずれていた。

 その東薬大の研究室員から「渡辺さんは、このところ体調が悪くて研究室はお休みにっています」と聞き、心配していた。亡くなられる半年ほど前のことである。おそらく三菱生命研時代に罹患した肝炎が遠因ではないだろうか。渡辺君は研究に関しては人一倍積極的で、当時、RNA研究の指導的な立場にあったガンセンターの西村 暹先生の研究室、国立遺伝研の三浦 謹一郎先生の研究室に出かけて研究することが多かった。ちょうどお子さんが誕生するころで、臨時の一人暮らしのとき、それも西村研に出向いていたときに肝炎を発症したのだが、本人も風邪と思い少し休めば直ると考え、一方、われわれの研究室ではその日は西村研に出かけていると思っていた。運の悪いことがいくつも重なっていた。翌日、渡辺君から「体調が悪いが、歩けないので病院にいけない」と電話があり、研究室員が手助けして入院させたが、もう一日早ければと悔やまれてならない。そのとき以降、渡辺君はしばしば「今、またドクターストップ」など冗談を言うような調子で、禁酒を繰り返していた。しかし、根が明るい性格で、そんなときでも懇親会など欠席することもなく、座の雰囲気を壊すこともなかった。

 「渡辺君、今度こそゆっくり休んでください」。

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