さようなら

姫野 俵太(弘前大学農学生命科学部)

 あの頃は若かった。将来に対する漠然とした不安を学業以外のことで埋めようとしている、とても優秀とは言いがたい大学生だった。GDP世界二位の経済を享受していた1980年、わたしは渡邊先生の研究室に配属された。三菱化成生命研から東京大学農学部農芸化学科に赴任されたばかりの先生にとって最初の卒業研究の学生であった。先生はまだ三十代。新進気鋭の新任教官にありがちな、学生に対する過度の期待は瞬時に吹っ飛んでしまったにちがいない。

 最初の実験はtRNAの塩基配列決定、わたしは先生の傍で実験助手をしていたというだけだった。無機リン酸から放射性標識ATPを作るという最初の段階でつまずいた。今なら購入すれば良いのにと思うが、それができない極貧の時代であった。ガンセンターや生命研ではうまくいっていた実験がうまくいかなかったことに、先生は焦りを感じていた。当時の自分が実験の内容をどれほど理解していたのか、思い返すと申し訳なく思う。先生が真剣に実験されている姿は、その時期以降、次第に見られなくなっていく。

 研究室配属当初、先生と卓球をしたり、将棋をしたりして楽しんだ。端くれとはいえ将棋部員であるという自信をへし折られたこともあった。数ヶ月もしないうちに、先生から「もっと研究に集中しなければいけない」と、注意を受けた。注意というよりも、自身を戒めているようでもあった。私は少しだけ反省した。その後の先生は学問一筋で、卓球や将棋をしている姿を見たのはこのときだけであった。わたしにとって貴重な記憶である。

 tRNAの塩基配列決定は早々にあきらめ、私の卒業研究のテーマは「高度好熱菌tRNAの修飾塩基の機能」ということになった。40時間ぶっ続けの実験という工程があり、麻雀や野球で鍛えた体力が役に立った。なかなか思い描いていたような結果がでなかったが、二日間不眠の実験を繰り返していたことは評価してもらっていたようで、「体力だけはすごい」と口癖のように言われるようになった。その一方で、勉強しないことに呆れられ、論文を読むことの大切さについて説教をくらった。勉強不足は明らかであり、一年余計に勉強させてもらうことになった。

 卒業研究のめどが立った頃、先生から教官の変更も含めてテーマを変更するように提案された。ショックだった。やはり、体力だけでは駄目なのか? このときから、研究に対しての真剣味は増したように思う。後に知ることになるのだが、このときの先生のお言葉はご自身の異動のことと大きく関係するものであったようである。たしかに異動が多く、その頃から「渡邊先生3年の法則」という言葉をよく耳にするようになった。

 先生は東大工学部に移り、わたしはかろうじて先生の弟子を続けることを許してもらった。修士論文の研究テーマは「ヒトデのミトコンドリアDNAの解析」となった。弥生(農学部)と本郷(工学部)を行き来する生活が始まった。連日終電、乗り遅れたら徹夜という研究漬けの毎日が続いた。その甲斐あって、変則的な遺伝暗号、さらにその変則的遺伝暗号に対応する奇妙な構造のtRNAを見つけることができた。先生と興奮を分かち合った。相変わらず体力勝負のところはあったが、それでも「体力だけは」から少し成長したと思ってもらえたに違いない。このころから先生は忙しくなり、自身で実験をされることはなくなっていた。

 修士課程卒業後、わたしは企業に就職した。その間、頻繁に先生のところを訪れ、それまでの研究結果を学術論文にまとめた。何かを発見する喜びを教えてもらい、そして努力と苦労の末に作品を仕上げることの喜びを教えてもらった。いずれも駆け出しの研究者にとってかけがえのないものであった。

 先生は農学部や工学部に在籍していたものの、全くのピュアサイエンス指向であった。生命とは何か、生命はどのようにして誕生したのか、などを熱く語り合った。わたしのまわりではピュアサイエンスはごく当たり前だったが、外に出るとそうではなかった。先生は、企業になじめない私の様子を心配し、もう一度アカデミックの世界に戻る機会を与えてくださった。感謝しても、し切れない。

 わたしは宇宙科学研究所に移り、ほぼ同時期に先生は東工大に移られた。先生のご厚意により東工大のラジオアイソトープ実験施設を使わせてもらうことになり、おかげで充実した研究生活を過ごすことができた。先生はとにかく忙しそうだった。3年後、先生は法則通り東大に戻られ、まもなくわたしは弘前大学に移った。

 先生は学会の重鎮となり、我々の研究を応援してくださった。我々が、tmRNAによるトランストランスレーションを発見したときは、ともに喜んでくださった。先生は、年に一回くらいのペースで弘前を訪れてくださり、わたしは武藤先生と牛田先生とともに、先生の来訪を心待ちにするようになった。弘前城のさくら、ねぷた祭り、立ちねぶたの館、津軽三味線、アップルロード沿いのりんご畑を走り鯵ヶ沢で烏賊を食べた、竜飛岬、十三湖、十二湖の青池、三内丸山遺跡、暗門の滝、白神、八甲田、岩木山は頂上まで登った、尻屋崎の寒立馬、恐山、十和田湖、奥入瀬、金木の斜陽館(太宰治の生家)、棟方志功記念館、小坂鉱山、ストーブ列車、かんじきを履いて雪に埋もれた田んぼを走り回った先生の姿は地元TVのニュースに放映された。先生とともに駆け巡った津軽の四季は、わたしの心の奥底に深く刻まれており、忘れることはないだろう。

 先生の後ろ姿を見ながらいろいろなことを学んだ。研究に対する考え方を学び、研究に対する情熱、研究者としての生き様を学んだ。先生は、オリジナリティーを尊び、そうでない風潮に流されることを嫌った。この齢で同窓会に出席すると、お前が教員かと、感慨深そうでもあり、怪訝そうでもある顔をされることがある。自分でもよく教員をやっていると思う。いや、とてもできているとは言えない。成績不良の学生や遊びたいさかりの学生を見ていると、かつての自分を思い出す。先生だったら、どう対処していただろう、と思う。真似をしようとしても、学生がついてこない。先生には、人を引きつける、何とも言えない魅力があった。多くの人たちが、この魅力に引きつけられた。自分もそうだった。考えてみると、先生は偉大な研究者であると同時に偉大な教育者でもあった。

 

 ふと、また遊びに来てくださいと心の中でつぶやいている自分に気がついた。

 

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