渡辺公綱先生と私

渡邊 洋一(東京大学大学院医学系研究科)

 私は、昭和62年度の東京大学工学部での卒業研究の際、三浦謹一郎教授の教室を配属先に選び、その際、当時、同教室の助教授だった渡辺公綱先生が三浦先生と一緒に考えられたテーマを選んだ。これをきっかけに、現在もなおミトコンドリアタンパク質合成系の研究を続けているのだが、渡辺先生との出会いは、研究室配属の約1年半前にさかのぼる。

 当時、東京大学の教養課程の学生だった私は、専門を工学部の化学系に選んだ。2年生の専門科目の中に「有機化学」の講義があり、その講師が渡辺先生だった。ひたすら黒板に構造式や反応式を書きまくるという進め方だったため、ついて行くのに苦労した。その後、渡辺先生と親しくなってから、このことについて直接尋ねると、「専門でもないのに、やれと言われたので、他に思いつかなかったんだ」とのこと。自分自身、近年は講義をする機会が多くなり、中には自身の専門から外れたことも扱うようになると、つい、(板書とパワーポイントの違いはあれ)同様の講義をしていることに気づき、反省しきりである。

 その後、専門課程に進み、化学実験の実習で反応装置の組み立てをしていたときのことである。コルク栓(ゴム栓だったかもしれない)に細長いガラス管を差し込むという作業中、不器用だった(今でもあまり変わらないが)私は不注意からガラス管を途中で折ってしまい、その切り口で手のひらに傷を負ってしまった。付属病院で手当を受けることになった私に付き添って下さったのが、たまたま当日、実習の監督をされていた渡辺先生だった。痛みは少なかったが出血が多かったため、病院との往復の際、ずいぶんと気にかけてさった。このことも、あとになって、覚えてらっしゃいますかと尋ねたことがあったが、「あー、君だったか、毎年何人かはいるんだよな」と例の調子で笑っていらした。後年、自分自身も学生実習の監督をするようになり、その中で多少危険な試薬を学生に扱わせることもあった。幸いまだ学生を病院に連れて行った経験はないが、ハラハラさせられる学生は毎年少なからずおり、私も渡辺先生にとって、彼ら同様に手のかかる学生だったに違いない。

 卒業研究の後、そのまま大学院に進学した私は、定年でやめられた三浦先生の後に教授となられた渡辺先生の御指導のもとで学位を取得し、その後しばらくして、大学院時代の研究が縁で現在の東大医学部に籍を置くことになった。このことを渡辺先生にお知らせすると、「医者で無いものは、医学部では苦労すると思うが、まあ頑張りなさい」とおっしゃった。はい、まだ苦労の連続です。

 昨年、9月初めに、私の怠惰で論文執筆が遅れていた、先生が共著者となっているミトコンドリアタンパク質合成系の研究の論文原稿を見ていただこうと、メールをお送りしたところ、「入院していたので体力が十分でなく、すぐには返事ができないので、構わず投稿準備をしてほしい」とメールで返事をいただいた。大変驚いた。その後、投稿直前に改めてメールを送ると、先生から返事はなく、代わりに奥様から先生が入院していることを知らされた。先生が亡くなられたのは論文を投稿してすぐのことだった。先生、あの論文は、間もなく修正稿を投稿しようとしています。先生に原稿をしっかり見ていただけなかったのは非常に残念ですが、論文が受理されるように見守っていて下さい。

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