日本RNA学会会報(最新号)

新年の挨拶

塩見 美喜子(日本RNA学会会長)

新年明けましておめでとうございます。

大隅先生のノーベル賞受賞の興奮が冷めやらぬ中、2017年は、それでも厳かに静かに始まったというのが個人的な印象です。諸事情で、今年はどこへも遠出をせず、家族とともに新宿で新年を迎えましたが、穏やかな快晴に恵まれ、何とも清々しい気持ちでゆったりと三ヶ日を過ごすことができました。

RNAフロンティアミーティング2016に参加して

貞廣 暁利(京都大学大学院医学研究科)

京都大学ウイルス・再生医科学研究所・生体応答学研究部門感染防御研究分野(竹内理研究室)博士課程2年の貞廣暁利と申します。このたび、2016年8月31日から9月2日にかけて北海道で開催されました、「RNAフロンティアミーティング2016(以下、フロンティアミーティング)」に参加させていただきましたので、ミーティングの様子を学生目線でご報告させていただきます。

RNAフロンティアミーティング参加レポート

野瀬 可那子(福岡大学大学院理学研究科化学専攻)

2016年8月31日から9月2日にかけて北海道ニセコで行われたRNAフロンティアミーティング2016に参加させて頂いた、福岡大学大学院理学研究科化学専攻博士課程後期1年の野瀬可那子です。今回は、本ミーティングに参加して得られた経験やその感想などを踏まえて参加報告をさせていただきます。

RNAフロンティアミーティングは,文部科学省新学術領域「ノンコーディングRNAネオタクソノミ」および「新生鎖の生物学」による後援を受け,RNA関連の研究を行う若手研究者と大学院生を中心に交流と親睦をはかることを目的としたミーティングです.今年は北海道のリゾート地ニセコで開催され,地元の北海道大学からはもちろん,東京大学・京都大学を始めとする全国各地の研究機関より数多くの関係者が集まりました.例年通り,今年も本州が猛暑に見舞われていたようで,避暑地の北海道を楽しみにしていたと道外の参加者が口を揃えました.しかし普段台風と縁遠い北海道ですが, なぜか今年だけ何度も上陸して,今回フロンティアミーティングの初日にも警報が発表され,一時はどうなるかと思っていましたが,無事予定通り開催されてほっとしました.

第19回RNA学会年会開催のご案内

井川 善也(富山大学理工学研究部)

第19回日本RNA学会年会(RNAミーティング)を、2017年7月19日(水)から21日(金)の予定で富山国際会議場大手町フォーラム(富山市)にて開催いたします。

昨年は京都で国際学会(第21回RNA Society Meeting)が開催されたため、本年会は国際学会との併催として実施されました。国内学会としては2年ぶり、北陸地域では初の開催となる第19回RNAミーティングでは、日本発の優れたRNAサイエンスの成果が披露・発信されることを楽しみにしています。

「次世代を担う若手研究者のエンカレッジ」は本年会の重要な役割です。その主旨の企画(「青葉賞」の授与および前回受賞者の講演、キャリアパスセミナーなど)は今回も継続して実施を予定しています。

1974年夏

1974年の夏、遺伝学研究所の研究員だった老生は、2年間の留学予定で、米国ニュージャージー州にあるロシュ分子生物学研究所(以下RIMBと略す)へ出かけた。思い返すと、この年から、mRNAスプライシングの発見がある1977年までの3年間は、前の稿でのべたキャップの発見以外にも、RNA関連の大きな発見があいついで、熱く、忙しい期間だった。

HnRNAプロセシングの謎解明へ | プロローグ 

前のエッセイで書いたが、1975年末には、HeLa細胞のHnRNAの5′末端にキャップがあり、3′末端にPolyAがあることがわかった。長いHnRNAをRNAポリメラーゼIIが合成し、キャップはその転写初期に付加され、m6Aが中間にあり、転写の終了時に別のポリメラーゼが3′末端にPolyAをつけるという様子が次第にわかってきて、HnRNA(~25,000ヌクレオチド)と細胞質mRNA(~3,000ヌクレオチド)のPrecursor-Productの関係は見えてきた。

野本明男さんが主宰していた「さきがけと生体機能」は楽しく、実り多い会だった。特に、フォーマルプログラムが終わった後の座談会では気楽に、色々と話が弾んだ。野本さんの面倒見が良かったこともあるが、若い研究者やアドバイザーのコンビネーションが良かったのであろう。野本さんが亡くなったあとも、手弁当で集まる会が4年連続で続いているのは、さきがけのアドバイザーを3期やっているのだが、他に聞かない異色の集まりだ。

キャップ依存タンパク合成の発見

高等生物のウイルスメッセンジャーRNA(mRNA)がメチル化されていて、その頭にm7GpppNm-という特殊な構造があることが、1975年1月、Nature誌6、PNAS誌(Furuichi/Shatkin7, Wei /Moss8)、FEBS Lett. (Urushibara et al.29)で報告されてからは、世界中のmRNA研究者やタンパク合成に興味を持つ研究者には一斉に火が付いたようであり、ここでもスリリングな研究競争が始まった。mRNAキャッピングについては、それがどの様にして作られるのか、タンパク合成以外にも、どのような機能を持つのか疑問点はあったが、最も興味を集めたのは「タンパク合成への影響はどうなのか?」という点であったので、そこから始めたい。

ロシュ分子生物学研究所のポスドク期間は2年と決められているので、筆者が着任して1年が過ぎると、前からいた3人のポスドク達は次々と別の研究施設へ移っていった。彼らの後半の1年間は、mRNAキャッピングという先端的研究に関わることができたこともあり、良い論文を連発していたので、次の職場へも喜んで迎えられていった。イスラエルから来ていたサラ(Sara Lavi)、オーストラリアからのジェリー(Gerry Both)はそれぞれ故国の国立研究所に就職し、インド人ポスドクのクリシュ(Muthukrishnan)はカンサス大学の助教ということで、それぞれ、良いポストを得て散って行った。そして、この3人の代りに入ってきたのは、のちに世界的に名を馳せることになるマリリン(Marylin Kozak:コザックルールの発見者)とナフム(Nahum Sonenberg:eIF4Eの発見者)の二人と、それから、少し遅れて、毛沢東が起こした文化大革命の混乱の中を、家族を中国に置いて、留学してきた中年の中国人ダショウ(Dashaw Wong)である。この3人はそれぞれの理由で印象深い。

プロローグ

あれは1974年3月の末だったろうか。東京駅八重洲口の地下食堂で、筆者は、同門で5年ほど後輩になる野本明男さんと飯田滋さんの3人と酒を酌み交わした。この日、野本さんの同期の人達の博士号取得のお祝いが研究室であって上京し、その帰りだった。筆者は4年前から国立遺伝学研究所へ勤めていたので、二人は、新幹線の最終便で三島へ帰る私を送ってきてくれたのだ。この飲み会はまた、2~3か月以内に3人がそれぞれ海外へ留学することになっていたので、自然に、3人だけの壮行会にもなっていた。恩師の浮田忠之進教授(東大薬・衛生裁判学)が2年前に亡くなられていたので、就職先など将来のことに関して、皆が不安な中に居た。若い二人は、豪気なところがあって、「なに、海外で良い仕事をして認められれば、何とかなるさ」ということであった。「いい仕事をして帰ってきても、先生がいなければ、就職先を世話してくれる人がいないかもしれない」などという一抹の不安もあることだったが、それを振り切るように、これから留学先でやると思われる研究について3人の話は弾んだ。

  1. 渡邊公綱先生を悼んで    日本RNA学会会報
  2. 渡辺公綱さん追想      志村 令郎
  3. 渡邊公綱さんの早すぎた死を悔やむ 西村 暹
  4. 渡邊さんとの交流      大澤 省三
  5. おもいで          大島 泰郎
  6. 渡辺公綱先生の思い出    関根 光雄
  7. 渡辺公綱先生の思い出    横山 茂之
  8. 渡辺公綱先生をしのんで   堀 弘幸
  9. さようなら         姫野 俵太
  10. 渡邊先生との思い出     浅川 修一
  11. 東工大渡辺研究室の思い出  横川 隆志
  12. 渡辺公綱先生と私      渡邊 洋一
  13. 渡辺公綱先生の思い出    横堀 伸一
  14. 渡辺公綱先生を偲ぶ     富田 耕造
  15. 渡辺先生の遺志を継いで   鈴木 勉
  16. 恩師 渡邊公綱 先生     鴫 直樹
  17. 渡邊公綱先生略歴      

渡邊公綱先生を悼んで

日本RNA学会会報

 平成28年10月16日、日本RNA学会第三期会長を務められた渡邊公綱先生がご逝去されました。心よりご冥福をお祈りいたします。先生の生前の本学会ならびにRNA研究への多大なご貢献に感謝し、RNA学会会報では、先生と交流の深かったみなさまにご寄稿をいただき、ここに追悼文集を作成いたしました。あわせて、先生のご功績を偲び、先生のご略歴を巻尾に採録いたします。

 渡辺公綱さんのご逝去の知らせを受けた時は、本当に驚きました。それは、彼が以前から体調がすぐれない程度の噂は耳にしたことはありましたが、それ程深刻な状態にあるとは認識していなかったからです。渡辺さんが他界されてしまった今、こうして彼との交友を回顧して、改めて過ぎ去った思い出を懐かしく思い出しております。

 渡邊公綱さん、私より10年も若くして、亡くなられてしまい、悲しく、寂しいとともに、本当に残念でなりません。渡邊さんの先生であられた今堀和友先生、三浦謹一郎も亡くなられてしまい、それゆえ、私が渡邊さんの先輩、友人として、一言述べさせていただきます。

 渡邊さんのご逝去は、まさに寝耳に水で、無念としか言いようがありません。

 長年にわたり、研究面でも、個人的にも親しくお付き合いをさせていただきました。ここ2、3年の賀状には、体調不良をのべておられましたが、研究面ではまだ活躍しているとのことでした。しかし、昨年の賀状では、研究のほうもままならないと書かれていて、心配をしていましたが、その数ヶ月後、このような訃報に接するとは思ってもいませんでした。

おもいで

大島 泰郎

 渡辺君を知ったのは、1968年秋、私がアメリカ留学から帰国し、新設された東大農学部の今堀研の助手に配置換した時である。今堀先生は教養学部と農学部を兼任しており、渡辺君はじめ大学院生は皆、教養学部の今堀研にいたので、毎週1回、セミナーの時しか顔を合わせなかったが、渡辺君は院生のボスという感じだった。渡辺君は体が弱く、小学校時代に休学し、ほかの院生より歳をとっているせいか、そのような苦労のせいか、落ち着いた態度を生みだし、それがほかの院生をひきつけていたのかもしれない。

渡辺公綱先生の思い出

関根 光雄(東工大名誉教授)

 私が東工大の大学院総合理工学研究科化学環境工学専攻の講師になってG1号館の4階に教官室をかまえ5階に研究室を立ち上げた翌年あたりに、私の恩師の畑辻明先生から、こんど東大の工学部から渡辺公綱先生が名古屋大医学部に転任した永津俊治先生がおられた生命化学専攻の講座の後任教授として着任することをお聞きした。当時、畑研では、メッセンジャーRNAの5′-末端構造を発見された東大の三浦謹一郎先生と共同研究で、キャップ化されたRNAの化学合成の研究をしていた。渡辺先生については、三浦先生の講座の助教授をされていて、核酸化学シンポジウムでも毎年ご発表されていたので、よく存じあげていた。

 渡辺公綱先生には言葉では言い尽くせぬほどお世話になっておりましたので、ご訃報に大変なショックを受けました。渡辺先生に最初にお会いしたのは、私が宮澤辰雄先生の研究室で大学院生だったときに、三菱化学生命科学研究所の大島泰郎先生の研究室でした。渡辺先生が書かれた高度好熱菌tRNAの2チオリボチミジンによる耐熱化機構の総説を読んで感激し、西村暹先生にご紹介いただいて、ドイツ留学から戻られたばかりのところに押しかけ、共同研究をしたいとお願いしました。それ以来、ずっとお付き合いいただくことになりました。

渡辺公綱先生をしのんで

堀 弘幸(愛媛大学大学院理工学研究科)

 渡辺先生、いつかこういう日が来るのかも? と頭では理解しておりましたが、ずいぶん早くて、とても残念です。生前、先生は

「俺が死んだら、葬式は派手に楽しくやってくれ。」

 と弟子たちに語っておられました。お言葉どおり、皆で会場いっぱいにお花を飾りましたよ。お通夜もお葬式も、会葬者の方々が会場に入りきれず、長い行列ができました。盛大だったでしょ? だけど、楽しくはやれませんでした。久しぶりに会う顔ぶれでしたが、皆、さえない表情をしておりました。

さようなら

姫野 俵太(弘前大学農学生命科学部)

 あの頃は若かった。将来に対する漠然とした不安を学業以外のことで埋めようとしている、とても優秀とは言いがたい大学生だった。GDP世界二位の経済を享受していた1980年、わたしは渡邊先生の研究室に配属された。三菱化成生命研から東京大学農学部農芸化学科に赴任されたばかりの先生にとって最初の卒業研究の学生であった。先生はまだ三十代。新進気鋭の新任教官にありがちな、学生に対する過度の期待は瞬時に吹っ飛んでしまったにちがいない。

渡邊先生との思い出

浅川 修一(東京大学大学院農学生命科学研究科)

 私が渡邊先生の門下に入ったのは1986年4月、修士からである。いまでも大差ないかもしれないが、当時の私はとんでもない学生であった。大学院入試で学部の4年の時に所属した物理化学系の研究室から、生物系の研究室に移ろうと思い立ち、同じ学科内に少し前に新設された三浦研(三浦謹一郎先生)に志望を出した。志望を出すにあたって、三浦先生に一言も断りもなく、合格して三浦研に配属が内定しても、一言も挨拶に行かなかった。とんでもなく非常識な学生であった。

東工大渡辺研究室の思い出

横川 隆志(岐阜大学工学部化学・生命工学科)

 私が曲がりなりにも研究者という立場で、今も研究活動を行えているのは、ひとえに渡辺公綱先生のおかげです。渡辺先生からいただくハガキに添えられているメッセージは、いつも解読困難な達筆で、読むのに一苦労するのですが、必ず「一発当ててください。期待しています。」と書き添えてありました。その文章だけは上手に読めるようになりました。これが横川の仕事だ! という研究成果をお見せする前に、渡辺先生がお亡くなりになって、淋しい、悲しい、はもちろんですが、自分がふがいなく、悔しい、という気持ちも少なからずあります。

渡辺公綱先生と私

渡邊 洋一(東京大学大学院医学系研究科)

 私は、昭和62年度の東京大学工学部での卒業研究の際、三浦謹一郎教授の教室を配属先に選び、その際、当時、同教室の助教授だった渡辺公綱先生が三浦先生と一緒に考えられたテーマを選んだ。これをきっかけに、現在もなおミトコンドリアタンパク質合成系の研究を続けているのだが、渡辺先生との出会いは、研究室配属の約1年半前にさかのぼる。

 2016年10月16日の早朝、渡辺公綱先生が逝去された。その報に接する2週間ほど前に、東京大学農学生命科学研究科の浅川修一さんとともに病床の渡辺先生とお話しする機会があった。その際に、渡辺先生から今後のご自身の研究について前向きなお言葉を伺い、一度は安堵し、先生のご回復を祈っていた身として、残念でならない。

 昨年の10月16日、日曜日の朝、起きてリビングにおりていくと「渡辺公綱先生が亡くなったよ。。」と野乃から伝えられました。その3日前の夕方6時頃に、鈴木勉さんから研究室に電話にて、渡辺先生の体調がよくないことを伝え聞き、そのまま鈴木勉さんと都内で待ち合わせて入院先の都内の病院へお見舞いに向かいました。

 突然の訃報に、私たちは深い悲しみに包まれています。

 私は1990年に、卒研生として渡辺研究室に配属されました。それ以来、渡辺先生は私の唯一のメンターとして、公私ともにずっとご指導を賜ってきました。思い起こせば、いつもニコニコされて、「がはは。」と大声で笑い、楽しそうに研究の話をする姿が浮かび上がってきます。おおらかで、茶目っ気があり、懐が深く、情にもろくて、人格的にも本当に素晴らしい先生でした。私も今では研究室を主宰する立場となり、学生の指導などで難しい局面に立たされることがよくありますが、そんな時は、いつも「渡辺先生ならどうするかな?」と想像しながら、対応を考えたりします。本当にいい先生に恵まれたと思っています。私以外にも、同じように思っている門下生たちがたくさんいることでしょう。

恩師 渡邊公綱 先生

鴫 直樹(産業技術総合研究所創薬基盤研究部門)

~昨年10月の日曜日の朝、好熱菌の生育の測定が終わり、さて帰宅しようかと思った折、訃報を聞きました。渡邊公綱先生201報目の論文のための実験でした。ああ、ご報告が間に合わなかった。~

入会手続きはお済みですか?: 入会申込み

ログイン: